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三川内の歴史
400年の歴史を誇る三川内焼
豊臣秀吉が起こした朝鮮の役を別名焼物戦争ともいいます。この時、各地の大名達は秀吉に命じられ競って朝鮮の陶工を連れ帰りました。二十六代平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)が慶長三年(1598)に連れ帰った陶工の一人古巨関(こせき)は藩主の命を受け平戸・中野で最初の窯入れをしました。これが中野窯で三川内焼の始まりです。しかし、白磁の陶石に恵まれなかったため、巨関と息子の今村三之丞は平戸領内を白磁の陶石探索の旅に出て、最後に落ちついた所が三川内だったのです。

ぼたん盛り絵花瓶
ぼたん盛り絵花瓶
(明治時代:嘉泉窯作)
三川内三皿山の誕生
二十八代平戸藩主松浦隆信は三之丞に三川内山に藩用の製陶所を開くことを命じました。。寛永十五年(1638)二十九代藩主鎮信は三之丞を皿山棟梁兼代官に任じ、寛永二十年(1643)には皿山役所の出張所を木原山と江永山に設けました。それが三川内三皿山の起こりです。

一般に、日本の大きな陶磁器の産地は、肥前と瀬戸の周辺となりますが、肥前は17世紀にはすでに白磁を焼いていました。
瀬戸では、19世紀初めまで白磁の技術はなく、加藤民吉氏は産地の命を受け、現存する三川内の薬王寺に寺男として、文化元年(1804年)から文化4年(1807年)まで住み込んで見事に瀬戸へと、その技術・技法を持ち帰り、瀬戸の陶祖神社に磁祖様として祭られていることは、ご存知の方も多いと思います。

世界に愛された三川内焼
南蛮交易で財政が豊であった平戸藩は長崎出島にオランダ商館が移動したため交易の利を失いました。そこで藩の奨励により、御用窯が年と共に盛大になると、藩は販路を海外に求め、輸出用陶磁器の開発に努め、その中で、珍重されたのが薄手(薄胎)のコーヒー碗皿です。このコーヒー碗こそが、日本で最初に三川内で作られたと言われています。文化元年(1804)にはオランダや中国に輸出し、海外の王侯貴族に愛されました。

三川内焼の新たな出発
明治維新を迎え、三川内皿山も遂に御用窯から民窯に転じざるをえなくなりました。二百余年の間御用窯としてあった三川内皿山は民窯としての実績がなく凋落は目に見えてひどかったようです。しかし豊島政治がこれを見て再建に乗り出し、販路を拡張しました。また明治三十二年(1899)三川内焼の伝承の技を守るために三川内山に意匠伝習所を創設しました。三川内御用窯の優れた技術は伝習所の指導のもとに若い陶工たちによって受け継がれ、これに新しい意匠考案が加えられて、みごと今日の三川内焼に伝承されているのです。

現代唐子絵
現代唐子絵
資料提供:三川内陶磁器工業協同組合
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